内田 魯庵「淡島椿岳――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド――」のあらすじとは?5分で分かりやすくご紹介します。著作権消滅作品の青空文庫から
椿岳の画は、江戸時代から流行していたと筆者は述べている。江戸時代には一と口に疹は命定め、疱瘡は容貌定めという。江戸時代の軽焼屋は、庶民に愛され、庶民に愛されるようになったという。
内田 魯庵「淡島椿岳――過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド――」の本文冒頭
震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜おしまれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月あわしまかんげつの向島むこうじまの旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬きゅうろの再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳ちんがくの手沢しゅたくの存する梵雲庵ぼんうんあんが復活するのではない。
向島の言問ことといの手前を堤下どてしたに下おりて、牛うしの御前ごぜんの鳥居前を小半丁こはんちょうも行くと左手に少し引込んで黄蘗おうばくの禅寺がある。牛島の弘福寺といえば鉄牛てつぎゅう禅師の開基であって、白金しろかねの瑞聖寺と聯ならんで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島名物の一つに数えられた大伽藍だいがらんが松雲和尚の刻んだ捻華微笑ねんげみしょうの本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽ことごとく灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲きゅうせいの梵雲庵もまた劫火ごうかに亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩得涅槃ねはん」の両聯れんも、訪客に異様な眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはらした小さな板碑いたびや五輪の塔が苔蒸こけむしてる小さな笹藪ささやぶも、小庭を前にした椿岳旧棲の四畳半の画房も皆焦土となってしまった。この画房は椿岳の亡ない後は寒月が禅を談じ俳諧に遊び泥画どろえを描き人形を捻ひねる工房となっていた。椿岳の伝統を破った飄逸ひょういつな画を鑑賞するものは先ずこの旧棲を訪うて、画房や前栽せんざいに漾ただよう一種異様な蕭散しょうさんの気分に浸らなければその画を身読する事は出来ないが、今ではバラックの仮住居かりずまいで、故人を偲しのぶ旧観の片影をだも認められない。
寒月の名は西鶴さいかくの発見者及び元禄文学の復興者として夙つとに知られていたが、近時は画名が段々高くなって、新富町しんとみちょうの焼けた竹葉ちくようの本店には襖ふすまから袋戸ふくろどや扁額へんがくまでも寒月ずくめの寒月の間まというのが出来た位である。寒月の放胆無礙むげな画風は先人椿岳の衣鉢いはつを承うけたので、寒月の画を鑑賞するものは更に椿岳に遡さかのぼるべきである。
椿岳の画の豪放洒脱しゃだつにして伝統の画法を無視した偶像破壊は明治の初期の沈滞萎靡いびした画界の珍とする処だが、更にこの畸才きさいを産んだ時代に遡って椿岳の一家及び環境を考うるのは明治の文化史上頗る興味がある。
加うるに椿岳の生涯は江戸の末李より明治の初期に渡って新旧文化の渦動かどうに触れている故、その一代記は最もアイロニカルな時代の文化史的及び社会的側面を語っておる。それ故に椿岳の生涯は普通の画人伝や畸人伝よりはヨリ以上の興味に富んで、過渡期の畸形的文化の特徴が椿岳に由よって極端に人格化された如き感がある。言換いいかえれば椿岳は実にこの不思議な時代を象徴する不思議なハイブリッドの一人であって、その一生はあたかも江戸末李より明治の初めに到いたる文明急転の絵巻を展開する如き興味に充みたされておる。椿岳小伝はまた明治の文化史の最も興味の深い一断片である。
(大正十三年十月補記)
椿岳の名は十年前に日本橋の画博堂で小さな展覧会が開かれるまでは今の新らしい人たちには余り知られていなかった。展覧会が開かれても、案内を受けて参観した人は極めて小部分に限られて、シカモ多くは椿岳を能よく知ってる人たちであったから、今だにその画をも見ずその名をすらも知らないものが決して少なくないだろう。先年或る新聞に、和田三造わださんぞうが椿岳の画を見て、日本にもこんな豪えらい名人がいるかといって感嘆したという噂が載っていた。この噂の虚実は別として、この新聞を見た若い美術家の中には椿岳という画家はどんな豪い芸術家であったろうと好奇心を焔もやしたものもまた決して少なくないだろう。椿岳は芳崖ほうがいや雅邦がほうと争うほどな巨腕ではなかったが、世間を茶にして描かき擲なぐった大津絵おおつえ風の得意の泥画は「俺おれの画は死ねば値が出る」と生前豪語していた通りに十四、五年来著るしく随喜者を増し、書捨ての断片をさえ高価を懸けて争うようにもてはやされて来た。
椿岳の画は今の展覧会の絵具えのぐの分量を競争するようにゴテゴテ盛上げた画とは本質的に大おおいに違っておる。大抵は悪紙に描きなぐった泥画であるゆえ、田舎のお大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に燦きらめく奔放無礙の稀有けうの健腕が金屏風きんびょうぶや錦襴表装のピカピカ光った画を睥睨へいげい威圧するは、丁度墨染すみぞめの麻の衣の禅匠が役者のような緋ひの衣の坊さんを大喝だいかつして三十棒を啗くらわすようなものである。
この椿岳は如何いかなる人物であった乎か。椿岳を語る前に先ずこの不思議な人物を出した淡島氏の家系に遡って一家の来歴を語るは、江戸の文化の断片として最も興味に富んでおる。
一 淡島氏の祖――馬喰町の軽焼屋
椿岳及び寒月が淡島と名乗るは維新の新政に方あたって町人もまた苗字みょうじを戸籍に登録した時、屋号の淡島屋が世間に通りがイイというので淡島と改称したので、本姓は服部はっとりであった。かつ椿岳は維新の時、事実上淡島屋から別戸して小林城三と名乗っていたから、本当は淡島椿岳でなくて小林椿岳であるはずだが、世間は前身の淡島屋を能よく知ってるので淡島椿岳と呼び、椿岳自身もまた淡島と名乗っていた。が、実は小林であったか、淡島であったか、ハッキリしない処が椿岳らしくてイイ。この離籍一条は後に譲るとして先ず淡島屋の祖先について語ろう。
淡島氏の祖の服部喜兵衛は今の寒月から四代前で、本もとは上総かずさの長生ちょうせい郡の三さんヶ谷や(今の鶴枝村)の農家の子であった。次男に生れて新家しんやを立てたが、若い中うちに妻に死なれたので幼ない児供こどもを残して国を飛出した。性来頗すこぶる器用人で、影画かげえの紙人形を切るのを売物として、鋏はさみ一挺いっちょうで日本中を廻国した変り者だった。挙句あげくが江戸の馬喰町ばくろちょうに落付いて旅籠屋はたごやの「ゲダイ」となった。この「ゲダイ」というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手あいてにもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲そとまわりの用事は何でも引受ける重宝人ちょうほうにんであった。その頃訴訟のため度々たびたび上府した幸手さっての大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを喜兵衛は大切に保管して、翌年再び上府した時、財布の縞柄しまがらから金の員数まで一々細かに尋ねた後に返した。これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、或時、国の親類筋に亭主に死なれて困ってる家があるが入夫となって面倒を見てもらえまいかと頼まれた。喜兵衛は納得して幸手へ行き、若後家わかごけの入夫となって先夫の子を守育て、傾き掛った身代を首尾よく盛返もりかえした。その家は今でも連綿として栄え、初期の議会に埼玉から多額納税者として貴族院議員に撰出された野口氏で、喜兵衛の位牌いはいは今でもこの野口家に祀まつられている。然しかるに喜兵衛が野口家の後見となって身分が定きまってから、故郷の三ヶ谷に残した子の十一歳となったを幸手に引取ったところが、継ままの母との折合おりあいが面白くなくて間もなく江戸へ逃出し、親の縁を手頼たよりに馬喰町の其地此地そちこちを放浪うろついて働いていた。その中に同じ故郷人くにものが小さな軽焼屋かるやきやの店を出していたのを譲り受け、親の名を継いで二代目服部喜兵衛と名乗って軽焼屋を初めた。その時が十六歳であった。屋号を淡島屋といったのは喜兵衛が附けたのか、あるいは以前からの屋号であったか判然しない。商牌及び袋には浅草御門内馬喰町四丁目淡島伊賀掾菅原秀慶謹製とあった。これが名物淡島軽焼屋のそもそもであった。
二 江戸名物軽焼――軽焼と疱瘡痲疹
軽焼という名は今では殆んど忘られている。軽焼の後身の風船霰ふうせんあられでさえこの頃は忘られてるので、場末の駄菓子屋にだって滅多に軽焼を見掛けない。が、昔は江戸の名物の一つとして頗る賞翫しょうがんされたものだ。
軽焼は本もと南蛮渡りらしい。通称丸山まるやま軽焼と呼んでるのは初めは長崎の丸山の名物であったのが後に京都の丸山に転じたので、軽焼もまた他の文明と同じく長崎から次第に東漸したらしい。尤も長崎から上方かみがたに来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名が見えるから天和てんな貞享じょうきょう頃には最う上方人じんに賞翫されていたものと見える。江戸に渡ったのはいつ頃か知らぬが、享保きょうほう板の『続江戸砂子すなご』に軽焼屋として浅草誓願寺前茗荷屋みょうがや九兵衛の名が見える。みょうが屋の商牌は今でも残っていて好事家こうずか間に珍重されてるから、享保頃には相応に流行はやっていたものであろう。二代目喜兵衛が譲り受けた軽焼屋はいつごろからの店であったか、これも解らぬが、その頃は最早軽焼屋の店は其処そこにも此処ここにもあってさして珍らしくなかったようだ。
が、長崎渡りの珍菓として賞めでられた軽焼があまねく世間に広がったは疱瘡ほうそう痲疹はしかの流行が原因していた。江戸時代には一と口に痲疹は命いのち定さだめ、疱瘡は容貌きりょう定めといったくらいにこの二疫を小児の健康の関門として恐れていた。尤も今でも防疫に警戒しているが、衛生の届かない昔は殆んど一年中間断なしに流行していた。就中なかんずく疱瘡は津々浦々まで種痘が行われる今日では到底想像しかねるほど猛列に流行し、大名だいみょう高家こうけは魯おろか将軍家の大奥までをも犯した。然るにこの病気はいずれも食戒が厳しく、間食は絶対に禁じられたが、今ならカルケットやウェーファーに比すべき軽焼だけが無害として許された。殊に軽焼という名が病を軽く済ますという縁喜えんぎから喜ばれて、何時いつからとなく疱瘡痲疹の病人の間食や見舞物は軽焼に限られるようになった。随したがってこの病気が流行はやれば流行るほど、恐れられれば恐れられるほど軽焼は益々繁昌はんじょうした。軽焼の売れ行は疱瘡痲疹の流行と終始していた。
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